八雲の碑(焼津駅) 焼津駅前にある記念碑(顕彰碑)は、焼津小泉八雲顕彰会が1966(昭和41)年8月に建立したものです。 “小泉八雲像”と題した白御影石の碑の表には、八雲の横顔を彫ったブロンズのレリーフと「焼津にて」の一節を刻んだ 黒御影石がはめ込まれています。
新川橋の碑 仙台石に「小泉八雲先生諷詠之地」と刻された記念碑は、1925(大正14)年5月、当時の焼津青年団が大正天皇の銀婚 式を記念して、町役場前の旧東小学校玄関脇に建てたもので、その後、1984(昭和59)年に現在の場所に移りました。
八雲滞在の家跡の石碑 八雲は1897(明治30)年から1904(明治37)年(明治31年と同36年を除く)の夏の間、ここに滞在しています。 この家屋は、1949(昭和24)年9月に静岡史蹟に指定されましたが、1968(昭和43)年9月に明治村に移されたため 現在そこには「小泉八雲滞在の家跡」の碑が建つのみです。(明治村に移築された焼津の八雲滞在の山口乙吉家 写真は小泉八雲記念館にあります。)
浪除け地蔵 ある日、一雄(八雲の長男)、書生の玉木、そして乙吉と焼津の堤防を散歩していた八雲は、首が取れて代わりに石が おいてあるお地蔵様を見つけ、あまりに無惨である、一雄の名前で新しいお地蔵様を作ろうと石屋に依頼しましたが、 セツ夫人に縁起が悪いと反対され断念しました。 地蔵様はその後、首をセメントでつなぎ、「浪除け地蔵」と称して守られてきました。しかしあまりに傷みが著しく なり、1966(昭和41)年、地元の人の浄財により、古い地蔵を光心寺に納めるとともに、身代わりの新しい地蔵様 を作製して、元の場所に小堂宇を設けて祀りました。新旧地蔵尊には今も香華が絶えることがありません。
海蔵寺 1859(安政6)年、焼津港から讃岐へ向かう途中遭難した福寿丸で、ただ一人助かった天野甚助は一枚の板子にすがって 2日2晩泳ぎ続けたといいます。甚助はその板子をいつもお助けを祈っている小川のお地蔵さま(海蔵寺) に奉納しました。八雲は焼津で天野甚助老人からこの体験談を聞き、「漂流」(『日本雑記』に所収)という作品を 書き残しました。この板子は、長い間海蔵寺に保存されていましたが、現在は焼津小泉八雲記念館に展示してあります。
熊野神社 昼なお薄暗いという形容がぴったりだった熊野神社の林ですが、現在では裏の道路が拡張されて周辺の開発が進み、 日が差し込むようになりました。八雲と一雄が乙吉を伴って訪れた時、乙吉と奥村(八雲と一緒に焼津へ来ていた書生) が昼なお暗い社の裏で、地面が火のように熱くなる体験をしますが、八雲と一雄は何ともありませんでした。 不思議がる八雲は、しきりに探索しましたが、結局何も発見できませんでした。
教念寺・光心寺・焼津神社 母(二十八代忍晃の妻)が嫁にきて間もなくの頃、裏の畑で仕事をしている処へ乙吉が垣根越しに面を出して、「おば さん、八雲先生が来たので、泉水(池)の鯉を見せてくりよや」といった。 「ああええともサ」と返事すると、乙吉のほうがむしろ背の高い、目の大きい外人さんが入って来てニコニコ笑って頭を 下げた。そして、池の鯉を見たり、本堂の屋根から上に枝を覗かせている大松を眺めて「大変いい景色」と何度もほめて いた。母が渋茶を汲んで出すと喜んですする様に飲んだ。 茶碗を持つ手も型にはまっていて、この外人さんはきっと偉い人に違いないと思った。(北山宏明著『小泉八雲と焼津』 より)焼津神社から鎌倉街道を教念寺へ、熊野神社から甚助の板子の奉納してある海蔵寺へ、とたどる道筋は 八雲の散歩道の一つでした。
小泉八雲散策コース
JR焼津駅 ~ 八雲の碑 ~ 新川橋の記念碑 ~ 八雲滞在の家跡 ~ 浪除け地蔵 ~ 熊野神社 ~ 海蔵寺 ~教念寺 ~ 光心寺 ~ 焼津神社 ~ 小泉八雲記念館
① 焼津駅(八雲の碑) ⇒ ② 新川橋(記念の碑)
③ 八雲滞在の家跡の碑(城之腰263) ⇒ ④ 浪除け地蔵(城之腰188)
⑤ 浪除け地蔵(城之腰425) (安泰寺墓場裏) ⇒ ⑥ 熊野神社(東小川5丁目9-3)
⑦ 海蔵寺(東小川6丁目35-3) ⇒ ⑧ 教念寺(東小川5丁目19-19
⑨ 光心寺(東小川1丁目6-6-1) ⇒ ⑩ 焼津神社(焼津2丁目7-2)
⑪ 小泉八雲記念館(三ヶ名1550) ⇒ 焼津駅
約3時間 普通車(お客様4名まで) ¥21,300(税込) ジャンボ(お客様9名まで)¥32100(税込)
(コースの変更、追加など気軽にお問合せ下さい。)
2025年後期 連続テレビ小説「ばけばけ」が9月29日より放送が始まります。
興味のある方は、是非焼津で小泉八雲さんの足取りを散策してみませんか?